��ȸ�ֿ���

Home > 重点事業 > 日本語競試大会 > 競試大会 14回
広島での5日間の研修 - 尹曉貞 (Yoon Hyo Jeong)

こんにちは。今回の研修旅行に参加した清涼高校2年生のユン․ヒョジョンと申します。広島でお会いした皆さんへの感謝の気持ちを込めて短くとも研修を通じて感じたことをお書きしたいと思います。

まず、広島駅に着いた時、とても熱く歓迎してくださって本当にびっくりしました。そして両手に日本と韓国の手旗を持って迎えてくださったことにとても感動しました。

1日目でお会いした広島女学院の皆さんはみんな親切で、思いやりがあって、平和について自分の考えをきちんと持っているところがとても素敵だと思いました。各学校の平和に関するプレゼンテーションを見て、同じ高校生なのに私とはあまりにも違ってて、自分を振り返ってみる機会にもなりました。

そして広島に原爆投下を決定したトルーマン大統領のお孫さんであるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんともお会いできて本当に光栄でした。原爆に関する彼の話を直接聞いたこともさることながら、生徒さんたちとのコミュニケーションまでできてとてもよかったです。あとで韓国に戻って調べてみたら、日本のニュース番組である'news zero'という番組でもダニエルさんと偵子さんのお兄さんである佐々木雅弘さんを取材したことが分かりました。あんな方々とお目にかかったことが今でも夢みたいです。

そして夜、平和公園で見た'灯篭流し'は広島で年に1回ある伝統行事で、参加できて本当によかったと思っています。ちょうど原爆の日だったのでいろんな経験ができ、意味のある一日でした。

2日目は平和公園と原爆ドーム、そして広島平和記念資料館に行きました。広島に行くことになる前からずっと行ってみたいと思っていたところだったのでとても期待していました。私は核兵器のことも戦争のことも漠然と'あってはならないもの'とは思っていましたが、やはり経験したことがないのでピンとこなかったのは事実です。しかし、資料館を見学して、核兵器の威力を実感し、未来の皆のためには無くすべきものなんだとしみじみ感じました。資料館を出た時、あまりにも天気がよくてなんだか不思議な気持ちになりました。資料館で見た通り、広島は原爆によってあんなに酷い目にあったのに今のように綺麗で住みやすい長閑かな町になったのはいつからだったんだろうと感心しました。

それから偵子さんの銅像といろんなところから送られてきた折り鶴を見ました。偵子さんが10年間の闘病中に折った鶴の話を聞いて胸が潰れました。

そして銅像の下にある鐘を鳴らしてみて、私も世界の平和のために何か役立ちたいと初めて思いました。恥ずかしいながら、私は今まで平和について深く考えたことがありませんでした。平和っていうのは各国の偉い方々がなんとか作っていくもので私とは一切関係ないものだと思っていました。しかし、広島の生徒さんたちが原発▪核兵器反対の署名運動を行ったことを聞いて、とても感心しました。核は日本だけの問題ではないので韓国の生徒たちもこれを見習うべきだと思いました。

昼食を食べながら広島県庁の皆さんともお会いしました。いろんな話をしてくださった上に、お土産までくださいました。お二人はソウルで行われる日本留学博覧会にもいらっしゃると聞いたのであらためて伺ってご挨拶するつもりです。

食事が終わって、広島の繁華街である本通りに行きました。みんなでゲームセンターに行ったり、洋服屋に行ったりして短かったですが、楽しい時間を過ごしました。夕食は広島風お好み焼きでした。 食べたこともさることながら、作ってみたのも初めてでした。みんなでわいわいと食べたお好み焼きは最高に美味しかったです。

3日目は日本三景で'神の島'と呼ばれる宮島に行きました。鹿が自由に遊んでて、少し驚きましたが、こんなに近くで鹿を見たり、触ったりしたのは初めてで楽しかったです。また、世界文化遺産である厳島神社と大鳥居はとても美しく、'平清盛'いう大河ドラマを見たことがあるので一層意味深く感じられました。そして実は大鳥居が海に浮かんでいることを聞いてとてもびっくりしました。約1400年も前に作られたのにすごい技術力だなと、また感心しました。5層塔と千畳閣も韓国の建物とは少し違ってて写真を撮り、韓国の建物と比べてみたくなりました。昼食で食べた穴子飯は宮島の観光案内パンフレットにも書いてあるくらい有名で、みんな嘆声を上げながら美味しく食べました。

4日目は縮景園とRCC、メリィハウスに行きました。縮景園は言うまでもなくとても綺麗でしたが、一番印象に残ったのは原爆記念樹でした。広島全域が廃虚になってしまうくらいの状況で生き残った記念樹がとても不思議で偉いとも思われました。そして、その記念樹が向かっている先は平和公園の方だとガイドさんに聞いてとてもびっくりしました。この木は原爆投下当時の状況を全て見ていたんだろうと思うと、なんだか言葉にできない不思議な気持ちになりました。それから、初めての茶道体験をしました。正座に慣れていなくてちょっときつかったですが、立ててくださったお茶とお菓子を食べて少し緊張が解れました。

次に向かったRCCでもまたとても貴重な体験ができました。韓国でもテレビ局に行ったことがないんですが、RCCで生放送中の現場を見たり、編集室に行ったりまた新たな経験をしました。RCCの皆さんが用意してくださったお弁当を食べて、広島城に行きました。もともと私は日本のお城に興味がありましたので、広島城を目の前にした時は胸が一杯になるくらいでした。展望台で一服していた時吹いてきた気持ちいい風は一日の暑さを忘れるようにしてくれました。

メリィハウスでは多くの方が迎えてくださって最初は少し緊張していましたが、施設を見物している間に、'60年ローンを組んで一緒にここで老後を過ごそう'って冗談もするくらい和やかな雰囲気になりました。そして姜仁秀理事長の話を聞いて、胸にぐっとくることもありましたが、私も自分の夢に向かってまっしぐらに突き進もうと決心しました。なんだか理事長に勇気付けられたようで、とても心強かったです。

最後の日はは宿舎でお弁当を食べて、とても親切だった管理人さんの見送りを受けて広島駅に向かいました。そこでまたNPOの皆様、広島女学院の理事長様とお会いしました。5日間大変お世話になった皆様と最後だったのであまりにも名残惜しかったです。また、プラットホームまで見送ってくださって心がとても暖かくなりました。

今回の研修旅行で日本の文化や歴史、地理などにますます興味が湧いて来ました。広島が三角州であること、スキーと海水浴両方とも楽しめる最南端の地方であることなど、地理的な面でも、韓国に戻って読みはじめた江戸時代に関する本などでも、自分はまだまだだと、これからもっと努力しなければならないと再三感じました。そしてスピーチ大会の副賞が去年までは研修旅行ではなく、ただの観光でしたが、それよりずっといいと思いました。歴史的に意味のあるところが見学できたことはもちろん、それに加えて聞いた説明は本当に勉強になりました。そして皆さんのおかげで貴重な体験ができました。本当に心から感謝しています。かけがえのない大切な思い出になりました。きっと今年の夏のことは一生忘れられないと思います。これを糧に日本語だけではなく、日本のことについてもっと勉強して行きたいと思っています。また機会があったらぜひ皆さんとまたお会いしたいです。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

広島で踏み出した平和への一歩 - 邊漢榮 (Byeon Han Yeong)

8月6日、まだ夜も明けていない朝4時に僕たちはインチョン空港に向かうバスに乗り込んだ。韓日協会主催の「全国中高等学生日本語学力競試大会」での受賞で広島への研修が決まったとき、僕は期待半分不安半分の気持ちだった。まず僕にとっては初めての日本だったし、しかも東京や大阪のような大都市ではなく広島だったので、楽しみという気持ちよりは「どうだろう」という気持ちが先立った。その気持ちは、インチョン空港から福岡空港まで、また博多から広島まで続いていた。博多から新幹線に乗っていよいよ到着した広島。駅の中で忙しそうに動いている人々を見ると韓国の駅とまったく同じように感じられたが、その人々から聞こえてくる日本語で、やっと自分が日本にいるということを実感した。広島駅では広島韓日国際交流センターの方々と広島女学院の生徒たちに歓迎され、はじめにはびっくりしたが、わざわざ出迎えてくれたことにとても感動した。

広島駅からバスで広島女学院へ。女学院では原爆67周年を迎え礼拝が行われていた。礼拝では被爆者から当時の話を聞き、またアメリカのトルーマン大統領のお孫さんからの話も聞いた。原爆を投下した国と投下された国。そして両国の人々が今自分の前で平和を語り合っていることが、まさに驚きだった。礼拝が終わり、僕たちは交流会に参加した。女学院を含めた3箇所の日本学校と、ハワイのプナホウスクール、そして韓国の僕たち。交流会ではまずトルーマン大統領のお孫さんのダイエル氏との質疑応答の時間があり、それから各学校からのプレゼンテーションがあった。いずれも原爆や平和に関する主題で、原爆の怖さと平和の大切さを痛感した。すべてのプレゼンが終わり、韓国・日本・アメリカ各国の生徒たちが集まったグループを組み、感想などを話し合った。そして同じ高校生として平和のために僕たちに与えられた責任とは何だろうというのも話した。「平和」。学校でいくら「平和は大切だ」と教えられてもピンと来なかった。それはおそらく今僕たちが平和の中で暮らしているためだろう。戦争なんて起きていないし、隣で人が死んだりすることもない。それでそのありがたさと大切さを感じることができないのだ。しかし間接的にでも戦争そして原爆について知り、その怖さと残酷さを思い知ることができれば、これから僕たちが平和を守っていくべきだと実感し、高校生でもその責任を担っていくべきだと思った。そういう意味でこの交流会はその一歩であって、本当によい経験だった。

1日目の最後の日程は「灯篭流し」だった。川に沿って流れていく灯篭を眺めながら、美しいと思いながらも67年前、「あつい、あつい」と叫びながらこの川に飛び込んだ人たちの魂が少しでも慰められたらいいな、と思った。

2日目の夜が明け、ご飯と味噌汁とともに一日を始めた。2日目は本格的な平和公園でのフィールドワーク。最初に入った資料館では広島の歴史、第二次世界戦争、そして原爆が投下された経緯などが説明され、また原爆でこの広島が、そして広島の人々が受けた莫大な被害についての説明があった。前から思っていた「なぜ広島だったのか」という質問についてもちゃんと理解することができた。そして原爆が与える被害、熱線・放射線・爆風からの被害は言葉で表せないほど夥しいものだった。原爆が爆発した8時15分に止まってしまった腕時計をはじめ、さんざんに壊れてしまった建物、やけどした人々。そして放射線が原因となった莫大な後遺症。特に原爆直後の写真や模型を見ていると、広島の街並みで叫んでいる人々の泣き声が聞こえてくるかのようだった。でも資料館は原爆の残酷さを伝えるだけではなかった。原爆の後、どうやって広島が今の姿を取り戻すことができたのか、その過程も展示されていた。広島の人々は絶望の中でも建物を建て直し、植物を植え、街並みを作り直した。そうやって、「原爆当初70年間人間は住めないし草木も生えない」と言われていた広島は復興に成功した。道を走る電車、商店街、ビルなど、今僕たちが広島で見ているこの全てがそのときの人々の数え切れない努力から生じたものだと思うと、感嘆せざるを得なかった。

資料館の次に向かったところは韓国人慰霊碑。原爆当時広島で亡くなった人々の1割は韓国人だったそうだ。彼らは強制連行などの理由で広島に来て、植民地支配の悲しみを抱いて命を失った。僕たちは慰霊碑の前に花を捧げ、黙祷しながら異国での彼らの苦しみを少しでも考えてみた。

韓国人慰霊碑の次は原爆の子の像だった。最初に原爆の子の像の周りに折鶴がいっぱいあって、折鶴が平和の象徴だということがわかった。しかし「平和」と言えば普通ハトなのになぜ折鶴かという質問に対して、女学院の理事長から返事を聞くことができた。鶴を千羽折ると原爆症が治る、と信じて鶴を折り続けた佐々木さだこさんの死を悼んで作られたこの記念碑。そして理事長のような広島で長い間暮らしていた方にしか聞くことのできない細かな事情まで聞くと、折鶴がまさに平和の象徴として感じられてきた。

このように、今回の平和公園のフィールドワークで一番よかった点は何と言ってもただ旅行に来ては聞くことのできない、原爆そして平和に関する肝心な話だった。いくら資料館を見回っても、まだ少し理解できなかった部分が、今まで広島の歴史をともにしてきた方々の話を通じて、胸に沁みてきた。

平和公園の中心にある慰霊碑の前で線香を上げているおばさんがいた。そのおばさんは僕を見て「今日も暑いね」と声をかけてきた。そのおばさんは被爆者二世だそうで、毎月ここに来て線香を上げるということだった。そのおばさんとは色々と話したが、胸に残る言葉があった。「平和公園とこの辺りはもともと広島の一番繁華街だったよ。それが原爆が爆発してここでたくさんの人が死んだ。なのにここでピースして写真撮ったりするでしょう?お墓の前で写真撮るのと同じことですよ。だから私はやめてほしいと言うんです。」そのとおりだった。2,3万人もの人が亡くなったこの場所で、楽しそうに写真を撮るなんてありえないことだ。彼女が言ったことは平和公園での僕の心構えを新たにする機会になった。彼女はまた、「毎年8月6日になると、私の親は『あの時と同じ暑い日だね』と言うだけでした。あの日のことを思い出すのがいやで、誰もそれについては話しませんでした。」と言った。被爆者二世から聞いたその生々しい話は、原爆が67年前この場で起こった惨状であり、その被害と責任はいまだに残っていることを証明した。原爆は本などでは学べない、本物の悲劇だった。

僕たちは平和公園での見学を終えた後、本通に向かった。広島市内一番の繁華街だそうで、1キロあまりの一本道になっていた。韓国にもあるダイソーは広島が本社だそうで、本当に色々な品物が置いてあった。本通りは、韓国の商店街とは違う印象で、その一本道をずっと行ったり来たりしながらたくさんのところを見回ったらすぐ日が暮れた。

3日目は一日中宮島見学だった。最初は宮島がどんな場所なのかというのも知らなかったが、世界遺産に指定されたということとか、日本三景の一つであること、そして最近「平清盛」という大河ドラマで人気を得ているということなどを聞いてとても楽しみだった。

フェリーに乗って宮島に着いたとき、一番目立ったのはやはり厳島神社の鳥居だった。その美しい姿とともに水に浮かんでいるということにみんなびっくりした。そして厳島神社の中では日本の神社の趣に浸り、おみくじを引いたり、御守りも買った。御守りはやっぱり学業の御守りにした。僕は厳島神社の色感が本当に好きで、今も僕の携帯にいちばんたくさんの写真が残っているのは厳島神社だ。

この日の昼ごはんは「あなごめし」!入ったところはしゃれている雰囲気の食堂で、すでにあなごめし、ハンバーグ、エビフライが用意されていた。あなごめしは今回の広島研修で食べた食べ物の中で一番おいしくて、本当に抜群の味だった!!!

ご飯を食べた後、少し自由時間があり、宮島の商店街を見回った。そこで発見したものの中一番はやっぱり「もみじまんじゅう」。大正14年に建てられた老舗、藤井屋のもみじまんじゅうは本当に 最高だった。甘い餡の味に僕は中毒してしまった。そのせいかお土産として10箱も買ってしまい、僕はすぐに一文無しになってしまったけれど。宮島で発見したのはそれだけでなかった。「杓子」。最初は「どうして杓子を」とも思ったが、ここの人には御守りのようなものだと言われて、「ここが正念場!」と書いてある杓子を買って韓国に帰ってきた今もその杓子に励まされている。

3日目の観光が終わり、4日目には広島城を見回って縮景園に向かった。まず広島城で新しく知ったのは、広島城には実際に殿様が住んでいなかったということ。そこは戦争などの非常時に使われたということだった。でもそれにしては少し派手だとも思ったが、「見栄え」の機能があったのかもしれない。

広島城の次に向かった縮景園ではガイドさんに案内してもらった。 縮景園の美しさや色んなところに込めてある知恵に驚きながらも、原爆の傷が残っている草木を見てやっぱりここも原爆の被害から逃れることはできなかったな、と思った。

縮景園をぐるっと回って、お茶会に参加した。まずは正座。最初は大丈夫かな、と思ったが、時間が経つとしびれた。しびれてしびれてどうしようもなかったけれど、無礼に見えるかと思って我慢した。でもその我慢に比べてお茶の味は最高だった!最初にお菓子をいただいてその甘味が口の中に残っていたが、暖かいお茶を飲むと甘味が苦味と混ざってやわらかい味になった。僕は普通お茶といったら苦くて嫌いだったが、これは新しい味だった。そのやわらかな味は未だに忘れられない。

縮景園を出て、RCC(中国放送)に向かった。韓国でも放送局なんて行ったこともなかったので、放送局の人々がせわしく働いている姿は本当にすごかった。放送の仕事って、きついなぁと思いつつも、やりがいを持って働いているんだなと思った。

4日目もこうして終わった。5日目は、広島そして広島の人々とのお別れの日。4日間広島を案内してくださり、色々なことを教えてくださってお世話になった広島韓日国際交流センターの方々は最後の日まで見送りに来てくださった。その方々には、まずこんなによいプログラムで僕たちによい経験、思い出を作ってくださったこと、そして僕たちと両国のことや、広島のことなど色んなことを語り合い、教えてくださったことに、もう一度感謝の言葉を伝えたい。(正直に言えば大人になって広島へ来てこのNPOの一員として働きたいと思うくらいだった!!受け入れられるといいけど…)

広島の皆さん。本当にいい勉強になりました。ありがとうございます。またいつか、広島に来ますから。広島での「一期一会」を絶対に忘れません。さようなら!

私が見て感じた日本、そして韓国 - 柳瑞禹 (Yoo Seo Woo)

私は韓日協会が主管する日本語競試大会で受賞して、他の受賞者たちと一緒に今年の夏休み 8月 6日から 10日まで日本広島と福岡に研修に行って来た。

今回の研修での私の焦点は、現在の日本と私の国の違うところは何で、果してその違いから私たちが学ばなければならないことは何なのかを知ることだった。

第一日目は、福岡を経て広島へ行った。韓国での '広島'という町はアメリカから被爆にあった恐怖の町というイメージが強くて、実際でも非常にひえびえとして陰鬱な都市だろうという思いがあったが、実際は非常に美しい平和な都市だったので非常に以外だった。

私は広島に到着するやいなや広島女学園に行った。
この学校で私は '平和'に関する日本の学生達のプレゼンテーションを聞いた。
私はこの時まで、まだ幼い学生だという言い訳で平和に対して一度も真剣に考えてみたことがないのに、彼らは周期的に平和に関する討論をするとか一般の人達を対象に核兵器廃止署名運動をしているということを聞いて、今までそんな活動に対して非常に怠惰だった私の態度を反省するようになった。 そして私は、まだ学生だが学生としてできるたくさんの活動を通じて、平和に貢献することができるはずだという気がして大きい希望が生れた。

二日目私は、広島平和公園へ行った。この公園は被爆当時の状況と核兵器使用の深刻性を知らせるためにアメリカ人と日本人が合同で作った公園だと言う。初め公園に入場した時は広島被爆事件に対して知っている人達なら当然持ちうる日本被爆者たちに対する切なさと哀れさだけだった。しかしその被害者たち約20万名の中で 2万名、すなわち、被爆にあって命を失った人達の中の 10分の 1がまさにその頃、地獄みたいだった日帝強制占領期間時、強制で日本に徴用されて引かれて行ったうちの同胞たちという話を聞いた瞬間私は非常に悲しい気がした。

こんな国を失った悲しみを、私たちが二度と感じないためには我が国の国民が我が国の歴史をよく分かって、良くないことをまた繰り返さないために、私たちの国力をもっと育てなければならないという気がした。このように平和公園の見学が終わって私たちは、平和公園周辺を掃除するようになった。その周辺はただ、草が疎らに生えている道端なのでごみがとても多いかと思ったが、ごみがほとんどなくて掃除は10分間、木の葉だけを拾って終わってしまった。ごみを拾っている途中その道を、私たちの国の道端と比べてみながら、もう一度ごみを道端に捨てない日本人たちのそんな意識と態度は私たちの国の人達が我が国の対外的イメージのためにも本当に学ばなければならないという気がした。

三日目に私は豊臣秀吉さ戦国時代当時に自分が首切りした人々の霊を称えるために作ったという宮島神社に行った。私は歴史時間に日本が私達の国の人達に強制で神社参拝をさせたと学び、日本の神社はとても薄ら寒いとの否定的イメージがあったがこの神社は、建物の色も明るくて神社の周辺に鹿たちがあまりにも自然に遊び回っている非常に以外な姿をしたそんな所だった。

神社見学が終わって特産物購買時間があったが商店街が非常にこぎれいで特産物を見物して買うのが非常に良かった。

四日目の日に、私たちは大阪城に行った。日本の城は初めてだったがが見る敷地で日本式城は私がTVで接した他の洋式城たちとはどう違うのかたくさん知りたかったが広島城の見掛けは瓦の面積 がだんだん広くなる形式の日本なりの魅力がよく出ているようで良かった。私は城内には部屋やキッチンなど生活空間があると思ったが意外にその中は博物館のように江戸時代に日本の武士たちが使った刀や彼らが着たよろいなどが展示されていた。城のてっぺんに上がって下を見下ろしたら広島城全体が全部見えて胸がすっとする気がして本当に良かった。

最終日に私たちはまた福岡に戻って、知人たちにあげるお土産をいっぱい買った。また最後に広島で過ごしていた間私たちの面倒をよく見てくださった方々にあいさつをしてまた韓国に帰って来た。 日本にいる時は韓国に早く帰りたいという思いしかなかったが、また韓国に戻る時さびしい気持ちに少しなった。

私が5年生の時初めて日本へ行った時は、ただ日本のすべてのものを見る度に '良い' という言葉以外なかったが、今回は我が国が日本からももちろんまだ学ばなければならないいくつかの点も多いが、我が国がこれから日本に劣らなくて世界に出ても羨ましくない位たくさん発展したなと思ってて本当に嬉しかった。今回の研修は私に我が国を愛する心を鼓吹させてくれて我が国がどれほど前にでてきたかを今更ながら思わさせてくれた研修だった。